なんとかデータベースラーメンカレーチャーハンぎょうざうどんそば
 

kaminshijimi

男性

台東区・中央区あたりが活動拠点。いい加減な糖質制限をしながらラーメンも食すことを目指す。

平均点 82.429点
最終レビュー日 2019年8月5日
14 14 0 25
レビュー 店舗 スキ いいね

「特製平子煮干そば+長ネギ」@新橋 纏の写真初訪問。判りづらい場所にあるという口コミをいくつか目にしたが、私はすぐに判った。というか、看板は見つけたのだが、肝心の店が何処にあるのか、どこに並べばいいのかが、しばらく判らず、向かいの喫煙所に突っ立ていた(あー、煙くて嫌だった)。ようやく店の前に並んだのが開店5分前。ビルの裏側でしか聞こえないような正体の判らない音を聞くともなく聞きながら、まったく陽の当たらない、新橋の裏路地のそのまた裏のような場所に、たった一人で佇んでいた。来る前には、想像すらしなかった状況である。

 ようやく開店して、一番奥の席につく。店の中も少し暗く雑然としていて、かつては居酒屋か小料理屋だったのではないかと思わせる、かなりアウンダーグラウンドな経歴をもっている雰囲気である。

 しかし、そんな中にあって、二人の調理人は割烹の料理人の装いで、背筋を伸ばして調理に従事している。無駄話な一切ない。その恰好や仕草からは、ラーメンという形で我々は和食を提供しているのだという無言のメッセージが伝わってくるかのようである。新橋の裏の裏のような場所ではあるが、そんなことは些事にすぎない、ともかく我々が提供する一品を味わってくれ、とでも言いたげな所作である。
 
 私が食した平子煮干そばは、和食のテイストを追求した一品としてはこれ以上望めないほどの調和がとれているように感じた。一つ一つの具材の調理にも神経が通っていた(難を言えばネギの切り方が少し雑であったが)。私はスープは飲み干さない方だが、珍しく最後まで飲んでしまった。

 最近は、煮干し=セメントという流行りがあるが、和食の観点からみれば、あれは明らかに邪道。出汁は濃厚にしないのが和食の鉄則である。だから、セメント系を期待したり、二郎系を食べたついでに連食するような向きには、ここの味は物足りなく感じられるにちがいない。そういう人は一度来てもう二度と来ることはないだろう、しかし、再度来たい人だけ来ればいいのだという信念を曲げずに和のテイストの筋を通しながら黙々と調理に励んでいるのだろうなと勝手に作り手の内心を忖度しながら食べていた。味もさることながら、私は作り手の姿勢に共感を覚えたのである。

投稿(更新) | コメント (0) | このお店へのレビュー: 1件

「らーめん(並)+レンソウ+チャーシュー3枚」@横浜ラーメン 武蔵家 大井町店の写真たまにふと、どう考えても身体に良くないと思われることをしてしまう、それは人間の悲しい性(さが)というものだが、そんな性は、ここ一年くらいの私においては、武蔵家で朝ラーを食べるという形で現れる。一月くらい家系のラーメンを食べないと、フラストレーションが顕在化し、そうだ明日は早起きをして大井町に行こうと思ってしまうのである。武蔵家は、私にとって、朝に食べるべき店である。

  昨日、たまたま朝5時過ぎくらいに目を覚ましたこともあって、実行に移すことに。二度の乗り換えを経て8時頃に大井町に到着。入店するとほぼ満席。地味ながら人気はありますね。私のようにわざわざ他所からやって来る人も結構いることだろう。

 武蔵家のスープは、最初食べたときは、濃い味噌汁のように感じられた。明らかに家系の本流からは外れた味である。だが、少なくとも壱六家系のライト(で、少し気の抜けた)ラーメンよりは食べ応えがあるので、許せる気持ちになる。この店では、ライスが無料でいただけるのだが、たしかに、炭水化物にとてもよく合うスープである。要するに、みそ汁とご飯の猫マンマなのである。武蔵家の創始者は、ライス無料のサービスを最初から前提して、そこから逆算しながら、スープの味を求めていったのではないだろうかと思われるのである。

 もっとも、私自身は、(かなりいい加減な)低糖質の食生活を目指しているので、ライスは固辞し、麺量も並にして、なるべくトッピングを増やすことにする。レンソウは必須。今日はチャーシューも加える。それに、ニンニク2さじと豆板醤を入れて完了。見よ、家系ラーメンのこの雄姿を(写真参照。二郎系のラーメンは絵にならないが、家系のラーメンは絵になると思う)。

 朝からこんなものを食べていいのだろうかという罪悪感のようなものを感じることは確かだが、身体から拒絶反応はなく喜んで消化してくれているようである。これは身体が健康であり食べ物も健全である証拠なのだから、何の問題もないのだと自らを説得しながら食べ進める。今日の一品は、相変わらずとても美味しかったのだが、チャーシューが少し硬いのが玉に瑕(きず)だった。もっとも、家系のスタンダードから考えれば、この店のチャーシューはまともな方であると思う。

 しかし、そんな細かいことで、この店の値打ちを測ることはできない。多少の罪悪感はあるが、朝から自分の嗜好に合うものを食べることができ、身体が順調であることも感じることができ、しかも、早起きをするのだから、この店で朝ラーを食するとき、三文の徳以上のものが得られるように感じられるのである。それは、自分(の身体)が以前と変わらず順調であることが確かめられたような感覚、と言えばいいのだろうか? すべて変わりなし、相変わらず自分は好きなことをしていられる、今日も元気で好きなものを食べたと実感できるのだから、たまに武蔵家の朝ラーを食べに行くことは、当分、止められそうにないと思うのである。

投稿(更新) | コメント (0) | このお店へのレビュー: 1件

「チャーシュー麺+味玉+九条ネギ」@らーめん かつお拳の写真近くの老舗蕎麦屋に行こうと思って歩いていたが、ラ好きの先達Co氏がここを激賞していたのをふと思い出したので、気が変わってこちらに。初めての訪問。

 鰹が効いたスープには多めのネギが合うだろうと思い九条ネギをトッピングに追加。しかし、これが大誤算。刻みネギがパサパサになって硬い。スープにしばらく浸しても異物感は解消しない。おそらく刻んだ状態で冷蔵庫に保存したためと思われるが、立ち食い蕎麦屋でも、こういうものを提供されたことはないように思う。

 店主であろうか、作り手の男性はマスクをしていて、体調が思わしくないのがはっきり伝わってくる。ときおり聞こえてくる不吉な呼吸音は、何か風邪以外の体調の悪さを思わせた。店側の人間があまりに元気良すぎてうるさく感じられるのも問題だが、作り手の健康面の不調がもろに伝わってくるのは、さらに問題である。そんな中で、まるで何事もないかのように、そういう人が作った一品を賞味するのは難しい。ひょっとしたら、あのネギの保存の悪さも、この体調の悪さと関係するのかもしれない。そういう意味で、今回の訪問はタイミングが悪かっただけなのかもしれない。また来ることがあれば、まったく違った結果になるかもしれない。しかし、また来ることがあるだろうか? たかがラーメンではあるが、ラーメンを提供することも食することも一期一会の経験であるはずである。私にとって、今回は、あまりに残念な一会であった。

投稿(更新) | コメント (0) | このお店へのレビュー: 1件

「ラーメン(味噌)+もやし」@らーめん弁慶 浅草本店の写真仕事も何もない日なので遅めに起床。八雲系列の店に行こうかなと思ったが、地下鉄に乗る気にもならなかったので、近場の弁慶に。開店時間の11時ちょっと過ぎに入店したが、すでに5~6名の先客がいた。

 ほぼ20年前にこの近辺に転居をした当時から、弁慶は有名店だったが、私はいつも素通りをしていた。すでにその頃から、私にとって「背脂チャッチャ系」は時代遅れに映っていた。たまに、弁慶の場所を尋ねられることがある場合、丁寧に教えながら「何をすき好んであんな古臭いラーメン食べに行くのかな~」と内心思ったりしたものだった。それから時が移り、最近になって、私も弁慶にたまに行くようになった。つまり、認識を改めたわけであるが、それには理由がいくつかある。近くには「ぶんすけ」のような実力店もあり、一時期そちらによく行っていたが、最近は足が向かなくなった。近頃は、狭い店にはなるべく入りたくなくなったのである。その点、弁慶には空間的な余裕がある。それに、私にはニンニク至上主義的な嗜好がある(生ニンニクでもph調整剤入りのおろしニンニクでもいい。私が家系のラーメンとの腐れ縁を断ち切れないのは、おろしニンニクの存在が大きい)。しかし、迂闊(うかつ)なことに、数年前まで弁慶におろしニンニクが常備されているのを知らなかった。それを知ったとき「なんだ、弁慶もやるじゃないか」と思いを改めたのである(妙な認識の改め方だが、ニンニク至上主義者にとってはそれは十分な理由になる)。それから、私は買い物や散歩などの折に店の前を日常的に通るのだが、客がよく入っているのを何年にもわたって眺めているうちに、「やっぱり偉いな、古かろうが何だろうが、客に長い間支持され続けられるってことは、それだけで偉いことだ」と思うようになった。それと最後に、これは言葉にしづらいのだが、ここで重要なのは弁慶のラーメンだけであるという雰囲気が良い。店主が誰かとかラーメンの作り手が誰かなどということは、私は知らないし、誰もそんなことは問題にしないだろう。常連はたくさんいるだろうが、店員と無駄話するような者は見かけない。みんな、さくっと食べてさくっと去って行く。蔵前の元楽なんかもそうだが、定評のある下町の店は大体そんなものである。肝心のラーメンだけが目当てなのである。「弁慶」はその店名と現物のラーメンだけで成り立っているのであって、それ以外は余計なのである。

 今日も、背脂ギトギトにしてもらい、ルーティンのようにおろしニンニクをスプーン二杯分投入して、美味しくいただいた。おろしニンニクをスプーン二杯分も投入すると、家系のスープだと胸糞が悪くなって食べられなくなってしまうのだが、弁慶のスープはそれ位ではヘタレない。だから、ニンニク至上主義者の私は、たまに無性にここに来たくなるのである。

 しばらく前から、中国系の女性が接客を担当しているのだが、弁慶の店員の中では、声の甲高いこの女性だけは私の記憶に残っていたようだ。今日も声を張り上げて接客していたが、それを耳にしながら、「ずいぶん日本語が上手くなったな」と、ふと気づいたからである。

投稿(更新) | コメント (0) | このお店へのレビュー: 1件

「チャーシュー麺」@来集軒の写真「流行を追わない、かつ、本格的なチャーシュー」を求めて、今回は、私の地元浅草の来集軒へ。

 この企画を思いついたとき、最初にリストアップした店に来集軒は入っていなかった。実は、来集軒では大変不快な経験をしたことがあったので、10年ほど行っていなかったのである。

 その昔、来集軒には「浅茅が原の鬼婆」のような老女が接客をしていた。その鬼婆は、客を客とは思わないような接客で結構有名であった(ここでその接客ぶりを記す気にはなれない。気になる人は、関連ありそうな単語で検索すると、その接客の犠牲になった人々の感想の文章を読むことができるので、調べてみてください)。私も一度行って懲りてしまった。前回感想を書いた「神名備」が客にとっての天国であるとするならば、鬼婆のいる来集軒は地獄のようなものであった。来集軒が、老舗であるにもかかわらず、名店として扱われることが少ない(と思うのだが)のは、そういう事情が関係している、と私は思っている。

 しかし、最近の口コミをいくつか読むと接客についての言及はない。さては、さすがの鬼婆も引退したのか? そう考えると、再訪する気持ちが芽生えてきた。あのひどい接客にもかかわず、ラーメンの味については好ましい記憶が残っていたからである。あの(たぶん、60年以上何も変わらなかった)古典的と言えるラーメンを思い返し、もう一度食べてみたいという気持ちが強くなった(もっとも、こういう記憶は、不正確である場合もある。先日、再開した銀座の共楽で久しぶりに食べたが、「あれ、こんな味だったっけ!?」と少しびっくりした、どこに問題があるのだろう? たまたま? 私の記憶がおかしいだけ? )。 


 …というわけで、正午きっかりに入店する。すでに何組かが席についていた。接客は結構な年齢の女性であったが、あの鬼婆でないことに安堵する。しかも接客は普通。「何にしますか」とか「ありがとうございます」といった普通の言葉を発するではないか! しかし、それ以外は、見たところ何も変わってはいなかった。内装も10年前と変わりないだろう。リノベのようなことは考えもしないのだろう、それはそれで潔いなあと感じさせる。テーブルも椅子も、椅子に載っているくたびれたクッションも10年前と同じような気がする。一度築いたものは、てこでも変えないのがここの不文律なのだろう。十年一日という言葉が文字通り当てはまる。メインの作り手は代替わりで変わったようだが、出てきたチャーシュー麺も、やはり、10年前と変わりないものだった(それどころか、昭和27年の創業当時から変っていない、と言うべきかもしれない)。私は、恩讐を超えて、久しぶりの再会を純粋に喜びたい気持ちになってしまった。見よ、この古典的な相貌を。とくに、この分厚いチャーシューを。そこには、時代に媚びないどっしりした存在感がある。ホロホロ崩れるほど柔らかくはないが、硬いという程でもない。昔はみんなこうだった。それをワシワシと噛みしめると、子供の頃に店でラーメンを食べたときにタイムスリップしたような気分になる。子供時分の私にとって、ラーメンの華は味の染みたチャーシューだった。チャーシューをいつ口に入れようかと思案しながら食べたものだ。それを口に入れるときの嬉しさ、それがもうなくなってしまうことの残念な気持ち、それらがない交ぜになった複雑な感情。私は、昔チャーシューを頬張ったときの純粋な気持ちが蘇ってくるような時間を過ごすことができた。


 嫌な記憶を振り払って入店したのは正解だった。ここでは、時間の篩(ふるい)にかけられて残ったものだけがもつ、逃げも隠れもしない正々堂々とした味を体験することができる。

投稿(更新) | コメント (0) | このお店へのレビュー: 1件

「チャーシュー麺(塩)+ 煮玉子」@神名備の写真チャーシューで残念な思いをすることが最近多いので、流行を追わない、かつ、本格的なチャーシューをいくつか食べてみようと思い立つ。そこで神名備へ。初体験である。西日暮里は近いようで遠い。用事がない限り来る場所ではないし、この近辺に用事があることは決してないので…


  開店時刻ちょうどに入店すると、すでに先客が数名カウンターに腰かけている。券売機を探したが、ない。接客の奥方が「どうぞこちらに」とテーブル席の方に手招きする。券売機はないのか、ではと、カウンターの隅に腰かけようとすると、奥方がまた「いいえ、空いてますので、テーブル席にどうぞ」と。そこまで言われるならば、断るのも失礼なので、テーブルの方に着席する。キャパシティーの関係で、カウンターの隅から順番に着席させる店があるが(やむを得ないかなと思いながら、ときに不快になることもある)、そんな機械的な客の捌き(さばき)方とは、えらい違いだなと思った。

  メニューをもってきた奥方が、「何になさいますか、ごゆっくりお時間をかけて選んでいただいて構いませんよ」とおっしゃってくれたが、こちらとしては、最初からチャーシュー麺(塩)にしようと決めていたので、その旨を告げた。いったん注文を小声で復唱しながら、奥方は「普通のラーメンにも大きなチャーシューが一つ載っていますよ。それに、チャーシュー麺にしますと、チャーシューが何本も載っているので、スープが少し冷めてしまいますし、塩気が強くなりますよ」とおっしゃる。しかし、こちらとしては、チャーシュー麺を食べるためにここに来たので、ここで節を曲げるわけにはいかない。だから「いえ、それでいいんです」と答えたうえで、「それよりも、麺少なめは出来ますか?」と尋ねると、「それは出来ます。出来ますけど、麺が少ないと、さらに塩気が感じられますけれど」と奥方はおっしゃる。なぜか奥方は塩気を気になさっているようだが、(だいぶいい加減な)糖質制限中のこちらとしては、麺は多くなくていいので「大丈夫です」とだけ答えた。

 それでいったん奥に下がった奥方がおしぼりをもって来たついでに「麺はお残しになっても構いませんので」とおっしゃる。「麺量を普通にしたらどうでしょう」と言いたいのであろう、う~ん、そこまで塩気のことを気にかけてくれるならば、仕方がない、「では、普通の量でお願いします」と、最後にはこちらが折れる格好になった。


 もう、この時点で、私の関心はラーメンから奥方の方にだいぶ移っている。上で書いたやり取りを文字だけで追うと、客の注文を奥方がまぜっ返しているように見えるかもしれないが、私はとくに不快には思わなかったし、むしろ、そこには配慮のようなものを感じたのでありがたく聞いていた。しかし、塩気を気にするのは何故か? 麺少な目よりは普通が良い、チャーシュー麺よりは普通のラーメンの方がよい、と勧めるかのようにするのは何故か? 最初はその理由がよくわからなかった。言葉の端々から感じとれたのは、私がこの店が初めてであることが奥方には判っていたということ。しかし、なぜ私がここは初めてなのかが判るのかも不思議だった。たぶん、驚異的な記憶力の持ち主で、彼女の脳裏のデータベースに格納されているどの情報とも、私の顔が一致しないのだろうと、店にいたときは、そう考えていた。しかし、すこし後から考えると、店に入ったときに券売機を探すような様子から、この客は初めてにちがいないと瞬時に察したのだろう。最初に入った店では、一番スタンダードなものを注文するのが筋というもの。チャーシュー麺にしたり麺を少なくすることで、少し印象が悪くなったらどうしよう、それは店にとってもだが、客にとっても残念な結果になるかもしれない、という気遣いが働いていたのだろう。だからさりげなく、チャーシュー麺よりは普通の方がよろしいのでは、という口ぶりになったのだろうと推測される。ひょっとしたら、カウンターではなくあえてテーブル席に招いてくれたのも、初めての客に対する、ささやかなサービスだったのかもしれない。何という目配りと気配り。そんなことをあれこれを思いめぐらしていくうちに、この奥方のもてなしの天分に対する讃嘆の念が自然と湧きあがってきたのであった。


 大崎裕史に言わせると、「神名備」は「「こうかいぼう」「天虎」と並んで3大優良女性接客店」とのこと(https://ramendb.supleks.jp/ippai/3Yvrb0j1)。他の二店は知らないのだが、仮にそんなジャンルを作るならば、この店は、間違いなくトップに来るに違いない。ただし、「接客」と言ってしまうと商売上の姿勢という(ちょっと、ビジネスライクな)意味合いになってしまう。客捌きのノウハウを十二分に心得ていてそれを過不足なく発揮する能力という意味になってしまう。しかし、私が体験したのは、それとは少し違って、人に対する際立った思いやりと言うべきものだった。


 さて、肝心のチャーシュー麺であるが、チャーシューを入れるため小鉢を奥方がもってきてくれたので、一本のチャーシューを残して他は小鉢に移すことで、スープが冷めることもなく最後まで美味しくいただけた。実際に食べてみて実感できたが、これは、チャーシュー麺ではなく、チャーシューにトッピングとして麺とスープが付属している食べ物なのである。チャーシューは美味でホロホロ崩れ食べやすく、いくら食べても飽きが来ることはなかった。やはり、チャーシュー麺にして正解だと思った。麺もスープもチャーシューの味を邪魔しないわき役の存在に徹しきっているように感じられた。わずかながらのモヤシも歯ごたえがあって存在感を出していたし、これもわずかながら、まぶされたカツオ節も無化調のスープに風味を加えていた。普通の量にした麺も、あの大量のチャーシューを食べる際の箸休めとしては、丁度よい量だったことが判明。しかし、食べ終わりの頃になると、やはり、塩気が少し気になったので、欲を言えば、野菜のトッピングが少しあってもいいかなとは思った。


 私は店の人と気やすく会話を交わすことはめったにないのだが、会計の際、奥方に「結局、麺を全部食べてしまいました」と少し照れ臭そうに言ったら、「そうでしたか」と奥方は破顔一笑。文字通り、破れるほど崩れたような笑顔を返してくれた。このような笑顔を間近で目にするのは、ついぞない経験であった。飲食店ではめったに得られない暖かな気持ちになって、私は帰路についたのであった。

投稿(更新) | コメント (0) | このお店へのレビュー: 1件

「喜多方肉そば(煮干)」@麺や 七彩 八丁堀店の写真恥ずかしながら初体験。八丁堀は私の行動範囲から微妙にずれるので、これまでスルーしてきた。

 先日、長尾中華そばを食べて煮干し愛に再び火が点ったので、今日、雨の中行ってきた。
 深いコクのあるスープは堪能できたが、やはり、これは喜多方ラーメンの煮干しバージョンであって、煮干しラーメンではない(当たり前か)。だがそれが判っていたならば、やはりこの店では喜多方ラーメン(醤油)にするのが正しい選択なのではないかと思った。本筋は喜多方ラーメン(醤油)であって、喜多方ラーメン(煮干し)はあくまで変化球であろう。

 肉そばには、低温調理のチャーシューと、古典的なタイプのばら肉のチャーシューが計十枚ほど載る。ああ、ここでも、低温調理のチャーシューか、と思った。古典的なチャーシューはとてもうまく感じたが、低温調理のほうは、無味に近いようにしか感じられない。昨今のラーメンの作り手たちは、低温調理のチャーシューを出すことが、ラーメン屋の義務であり良心の証であるかのように錯覚している節があるのが、私には気に入らない。肉をレア状で楽しみたいときはステーキ屋に行くから、醤油味の染みこんだ古典的なチャーシューを出してくれればいいよ、と声を大にして言いたいくらいだった。肉そばは食べたいが、低温調理のチャーシューは食べたくはないといった客のために、一部の店が行っているように、客がチャーシューの種類を選べるようにするという配慮があってしかるべきではないだろうか。

 私にとって、この低温調理のチャーシューの経費が反映された1200円は、割に合う値段とはとても思えなかった。

投稿(更新) | コメント (0) | このお店へのレビュー: 1件

「ごぐにぼ+もも肉チャーシュー+煮玉子」@長尾中華そば 東京神田店の写真しみじみ美味いなぁと堪能しました。
 
 煮干しの拉麺というと、一時期、私は「いづる」に入り浸っていた頃があったが、ある時期を境にピタッと行かなくなった。たしかに今食べても美味いと思うだろうが、おそらく、あの塩分濃度の高さに体が拒絶反応を示したのではないかと解釈している。神田駅周辺で煮干しを売りにしている店でも、「すごい煮干しラーメン」系列の店でもそうだが、どこでも、煮干しの濃度を上げようとすると、それに比例して、煮干しに由来する塩分の濃度も上がってしまう。最初は美味く感じるのだが、食べるうちに少し苦しくなっていく。本来の煮干しは、みそ汁の出汁がそうであるように、こんなに前面に出てくるものではないはずのものである。だから、煮干しを前面に押し出す拉麺は、煮干しの本来の使用法に反しているのである。そこから、煮干し拉麺を作る側の葛藤や工夫が求められることになるのである。

 この「長尾中華そば」が提供する一品は、高水準の煮干しの濃度を維持しながら、塩分濃度をきちんと抑制している。「美味い」と思いながら、身体の奥底で拒絶反応を引き起こしかねない過激な要素をきちんと取り除いている。それは、人によっては物足りないという印象を引き起こすかもしれないが、少なくとも私には、危ういバランスを取りながら、塩分過多に振れることなく、煮干しのもつ旨味を最大限に引き出しているように感じられた。

 トッピングの「もも肉のチャーシュー」もおいしい。昔のチャーシューは皆こうだった。低温調理などという詰まらない技法に走らず、昔からのチャーシューの作り方に従ったチャーシューは掛け値なく美味い。昔風のチャーシューが好きな私には、これだけでここに通う理由になる、と思われるほどだった。  
 
 惜しむらくは、立地がいま一つ不便で店舗が狭すぎるということ。店舗が狭いと、女性は入りたがらない。煮干しの拉麺を好む女性が少なくないことを私は経験的に知っているが、現状の店舗では女性は入りづらいだろう。その点を改めると、もっともっと人気化すると思うのだが。

投稿(更新) | コメント (0) | このお店へのレビュー: 1件

「蒙古タンメン+麺豆腐変更+チーズ+ネギ」@蒙古タンメン中本 品川店の写真中本は、ずいぶん前に、煮込みすぎて野菜の「えぐみ」が前面に出てしまった一品を供されて呆れた経験以降足が遠ざかっていたが、麺の代わりに豆腐に変更できるサービスがあることを知り、食してみようかという気持ちになった。

 入り口に立てかけられた「ロカボしませんか」の看板に迎えられて入店。野菜の「えぐみ」の記憶が蘇ってきたので、中和のためにねぎとチーズをトッピングにする。しかし杞憂であった。私のずいぶん前の「えぐみ」の経験は、交通事故に遭ったようなものだったのだろうと解釈する。

 ともかく久しぶりの味である。60円増しの豆腐はそれほどの量ではなかった。しかし、スープを飲みながら食べ進めて行くと、そこそこ満腹感が得られたので、ちょうどよい量だったのかもしれない。しかし途中で飽きが来るので、トッピングに工夫が必要であるかもしれない。背脂やとろけるチーズなんかはありか? 口休めのために、湯豆腐なども良いかもしれない。

 結論として、この豆腐変更のサービスは、予想以上に良いことが判明。しかも、辛さが味のメインを占める分、塩分が抑えられるので、その意味でも、通常の拉麺よりも体には良いと思われる。糖質も塩分も気になる、されどラーメンは食べたいという人には打ってつけである(麺もご飯もなく食べられるという人でないと、楽しめないだろうが)。しかし、どの店も混んでいるので、時間的に余裕がないと足が向かないだろうな。

投稿(更新) | コメント (0) | このお店へのレビュー: 1件

「特製らーめん(もも肉)+レンソウ」@らーめん飛粋の写真約一月前に訪問したときのことを思い出しながら書くと…

 家系で人気化している店があることは以前から聞いていたが、如何せん、遠くにあるのでなかなか訪問の機会がなかった。しかし、家系ラーメンとの付きあいが30年近くになるファンとしては、一度は行かないといけないと思っていたので、朝早く家を出てP.P.を得たときは少し興奮したほどだった。

 結果は…期待外れだった。たまたま、その日の出来が思わしくなかったのかもしれないが、どうも、私のもつ家系のコンセプトとは違う方向性で作られているので、たぶん何度行っても違和感をもつに違いない。家系のスープは、良くも悪くも、あの徹底的に煮込んで雑味であろうが何であろうがすべてを受け入れて抱擁するようなおおらかな無骨さ、優美な野蛮さにある、と私は思っている。しかし、この店のコンセプトは、そうした雑然とした部分をすべて切り捨てて、旨味のエッセンスだけを提供することを目指しているかのようである。いわば、雑味をひたすら濾過して端麗な日本酒を目指す過程をラーメンに適用したかのように思われた。

 その結果は、一般的尺度からすれば美味いと言えるのかもしれないが、長年の家系ファンに言わせれば、品は良いが、無骨さも野蛮さもない何か気の抜けたような味としてしか感じられなかったのである。

 それに残念だったのは、もも肉のチャーシューが室温に戻りきっていなかったために、硬く感じられ(それは写真から推測できると思うが)、ラーメンのスープから無駄に熱を奪っていたことだった。客に提供する品々に対してどれほど慎重な目配りがあるのだろうと訝(いぶか)しく思った次第である。

投稿(更新) | コメント (0) | このお店へのレビュー: 1件